史家とテクニカルコミュニケーター

磯田道史氏の著書「江戸の備忘録」を読んだ。磯田氏のことはNHK BSで放送されている「英雄たちの選択」の司会者として以前から存じ上げており、たまたま著書を書店で見かけて衝動的に買ってしまったのである。私が買ったのは2008年に単行本として発行されたものの文庫化であった。史家というのは著者があとがきの中でご自身のことをそのように書かれている肩書だ。今回は、本文の記事に関することではなく、あとがきに書かれていたことに関しての話題である。次はそのあとがきの1段落の引用である。

だが、そのうち、ある一事を思うようになった。「牛のようなものに、自分はなりたい」ということである。牛は草を喰んで乳を出す。そんな魯迅の言葉がある。別段、難しい話ではない。人間は草を食べない。しかし、牛が草を食べると、甘美な乳が出て、人間も飲むことができる。同じことが、史家と世人の間にも、いえる。古文書は解し難い。古文書はそのままでは、なんのことやらわからないが、史家がこれを読んで嚙み砕き、牛が乳を出すが如くにすれば、世人はその味を甘受できる。良い草を喰まねば、良い乳は出ない。だから、史家は、良き草、すなわち、良き史料ををたずねて書物蔵に入り、牛が悠然と草を喰むが如く、ゆっくりと史料の頁をめくる。

史家をテクニカルコミュニケーター、世人をユーザー、古文書を技術文書とすれば、自分にあてはまるではないか。テクニカルコミュニケーターにとって、草とは支給された技術情報である。では、良き草とは何であろうか。支給された情報を補う情報(インタ―ネット上の技術論文や技術記事などの関連技術情報)がそれにあたるだろう。

タイパと言い訳しながら生成AIを利用する今日この頃。牛のようなものに自分はなれたのか….。反省の日々である。